①高岡の歴史

伝統工芸高岡銅器で全国に知られる高岡市は、来年開町四百年の節目の年を迎えます。加賀藩の二代藩主であった前田利長が高岡城を築城し、慶長十四年(1609)九月十三日に入城したことを記念して数々の行事が計画されています。加賀藩は前田利家が初代藩主として、加賀・越中・能登の三国を領し通称加賀百万石といわれています。実際には百二十万石の石高を誇る日本一の大名として栄えましたが、その経済活動の中心として栄えた町が高岡なのです。現在の高岡の町の基礎がその時に出来ていますので、以下に少し詳しく解説させていただきたいと思います。

 慶長三年(1598)に没した豊臣秀吉に後を託された前田利家も翌年(1599)には没し、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで徳川方についた二代利長はその功により加越能三国の太守となりました。利長には子が無かったため義弟利常を養嗣子とし、さらに慶長六年(1601)に加賀藩の安泰をはかる為、徳川秀忠の娘玉姫を利常の正室として迎えました。時に利常は八歳で玉姫は三歳という、まさに天下の平和の為の政略結婚だったわけです。その後利長は利常が元服した慶長十年(1605)に、藩主の座を譲り隠居ということで越中の富山城に住んでいましたが、慶長十四年(1609)富山城が焼失したため急遽高岡に城を築きました。この時築城(縄張り)にあたったのはキリシタン大名として有名な高山右近といわれています。右近は、宣教師などを通じて新しい高度な技術を身につけており築城の名手とも言われています。また一方、右近は茶人として細川三斉や古田織部などと一緒に利休七哲の一人として今も名前が残っています。

その後利長は次々と町づくりを進め、多くの商人や職人達を高岡へ呼び寄せています。慶長十六年(1911)には七人の鋳物師(いもじ)を招き現在の金屋町へ住まわせますが、これが現在の高岡銅器の始まりといわれています。ところが、利長は入城してわずか五年後の慶長十九年(1614)五月二十日に没しました。高岡鋳物の町・金屋町では今でも毎年利長公の命日にその遺徳をしのび『御印祭』(ごいんさい)というお祭りを行っています。一方、同じ年の十二月に右近はキリシタン追放で加賀を出てマニラに行きましたが、慶長二十年(1615)二月に病を得て亡くなっています。

ところで、この年の六月に徳川幕府により一国一城令が制定された結果、加賀藩の城は金沢城に統一され、高岡城は築城後わずか六年で廃城となってしまいました。この事により城下町として加賀藩の一方の中心と期待された高岡の町ですが、存続の危機に瀕することとなってしまったのです。このような状況の中で、三代藩主の利常が高岡の町人に対し数々の保護政策を施すことによって町を残すようにしました。その結果、高岡が加賀百万石の経済を賄う商工都市として発展をし、その後現在にまで引き継がれているのです。

高岡銅器はこの様な経緯の中で発達してきました。最初に利長公に招かれた鋳物師達には、現在の金屋町に百間×五十間という広大な土地を与えられ、当初は鍋・釜・すき・鍬という鉄鋳物を作っていました。当時鋳物製品は大変高価だったので、まとまった代金を払えない農家の人たちに対して鋳物師は鍋や釜をリースで貸し出し、米が収穫されたときに米でその代金を払っていたという記録があり、貸し鍋台帳が今でも残っています。鍋・釜は近代になってアルミ製品が出てくる迄ずっと作り続けられています。

その後、江戸時代の中頃の宝暦年間(1751)に唐金鋳物による仏具の生産が始まりましたが、この流れが高岡仏具として現在も日本中の仏壇に入れる仏具を作り続けているのです。

その後も常に時代のニーズに合わせたものづくりが行われ、日本有数の鋳物の産地としての地位を築くことになります。江戸時代後期には、矢立(現在の万年筆にあたるもの)に象嵌(ぞうがん)を施したものが全国に販売されたという記録もありますし、北前船を使って北海道へ鰊(にしん)釜を大量に運び大いに栄えたとの記録も残っています。

明治時代になると、武士の刀の装飾を行っていた金沢や富山の象嵌職人が仕事を失った結果、高岡銅器の装飾を行うようになり、象嵌を施した花瓶や香炉などが国内外で極めて高い評価を受けることになります。

中でも明治六年のウィーン万国博覧会に出品する為に高岡で製作され現在東京国立博物館に収蔵されている横山彌左衛門作「頼光大江山入図大花瓶」は、政府に四千百円という高額で買い上げになり、その上納入時には代金の他に三百円を特別に賞与されたという記録がありますが、米価が一石五円の頃のことですのでその評価の高さに驚かされます。

現在高岡では「高岡伝統工芸名作保存会」によりその当時の金銀象嵌作品が数多く収蔵されており、高岡市美術館で作品を見ることができます。
また、明治中頃から数々の技術開発及びデザイン開発が積極的に行われ高岡銅器の生産が急速にのびています。特に明治二十七年に富山県工芸学校が創設され、人材養成・技術改革に大いに成果を上げています。

明治二十九年には富山県工業会が創設されデザインの指導が強化されており、民間では明治三十四年に高岡銅器産業に従事する青年たちが高岡金工会を組織し工芸技術の研究を行っています。

その後、この高岡金工会の会員の中から、人間国宝になった彫金の金森英井智や釜師の畠春斉など中央の展覧会で活躍する作家が多数生まれています。
ところで、仏具の他に明治時代に一番多く作られるようになった銅器は火鉢・瓶掛という暖房器具でした。また鉄器としては鍋・釜の他に鉄瓶も作られるようになっています。

この背景には、一般庶民の生活レベルの向上がということが読みとることが出来ます。昭和十年頃の業界調査報告に、火鉢や瓶掛の出荷量が二十万個を越えるという記録がありますが、全て手作りの製法の時代でのこの数字には本当に驚かされます。

業界の古老から聞いたところによると、鋳造工場の数も多かったのですが鋳造した後の彫金や着色などの加工工程も細かく分業化され、一つの加工工場に数人から十数人もの職人が働き、大変効率よく製品を作っていたと言うことです。
戦時中は家庭用の金属製品を作ることが出来なくなり、鋳物職人達は軍需工場でアルミニウムの製品を作っていました。この技術がその後、高岡でのアルミ製鍋・釜の生産に繋がり、現在の日本有数のアルミ製品の産地となる基礎となっています。
昭和二十年代後半にはようやく銅器の生産が再開しましたが、その後の日本経済の発展にともなって作る製品も多岐にわたり、東京・大阪・京都などの戦前まで銅器生産地の衰退する中、現在では日本唯一の銅器の生産地となっています。

写真
①高岡古城公園にある「前田利長公像」 ②高岡古城公園大手口の「高山右近像」 ③金屋町の緑地公園にある「高岡鋳物発祥地石碑」④博覧会に出品されたものと類似の「明治期彫金作品」

「金屋町石畳通り 鐵瓶屋」

 富山県高岡市金屋町1-4

 TEL 0766-25-7305

 E-mail tetsubinya@fork.ocn.ne.jp

高岡銅器の展示・販売

「高岡銅器展示館」

 富山県高岡市美幸町2-1-16

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