第2回 鉄瓶と健康①

①はじめに

鉄瓶と言いますと、まず皆様が思い浮かべるのは、火鉢の中に五徳を据え、その上に乗った姿だと思います。 
その次ぎに「シューー」という音や、温かそうな湯気の立ちのぼる様子など、何か心が安まる雰囲気を思い浮かべると思います。
私自身、子供の頃商売をしていたお店の正面に、大きな瓶掛けがどんと置いてあり、いつも火が入れてありお湯が沸いていた記憶があります。そしてそのそばには、急須や茶碗や茶こぼしが置いてあり、お客様が来られますと鉄瓶のお湯を使ってお茶を入れていたものでした。

ところが、現在ではどちらのお宅へ伺いましても、火鉢や鉄瓶を使っている場合には殆どお目に掛かりません。お茶を入れるには、電気ポットがあればそれで用が足りるということで、実用的にはそれでも良いのですがあまり風情が感じられないと思います。
ところが最近になりまして鉄瓶が見直されているようで、私共の会社でも毎月何十個かの鉄瓶の注文が入ってきます。これは、最近になって鉄瓶で沸かしたお湯が体によいのだということがわかってきて、テレビや新聞などで時折報道されるようになったからだと思います。

鉄瓶で沸かしてお湯の中に解けて出る鉄分と人間の体との関係は、後ほどお話をしたいと思います。
実は、私は約30年ほど前から鉄瓶の収集を続けています。
なぜ鉄瓶を収集することになったのかということにつきまして、詳しいことは省きますが、会社で取り扱う製品のなかで生活の中で実際に使うものというのが、大変少ないと言うことがありました。その中でお茶道具やお花の胴部はそれぞれ必要に応じていつ揚な素材で作られているということがありました。本来ならば釜に着目するべきですが、自分の小遣いではなかなか買えませんので、日常身近に使える道具として、鉄瓶に着目したわけです。

当初手探りで、一個また一個と集め始めましたが、50個ぐらいになりますとそれぞれの鉄瓶の産地や作者などもいろいろ分かってきまして、もっと詳しく調べたいということになって行きました。
その内、鉄瓶の歴史を調べるようになりました。そこで色々調べて行く内に、鉄瓶の名称がいつ頃から始まったのかということを知ろうとしましたが、なかなか分かりません。 
この疑問は、現在もはっきりと解けたわけではありませんが、今のところ分かっていることについまして、少しお話をしてみたいと思います。

②鉄瓶のルーツ

色々な文献を探しますと、鉄瓶のルーツは手取釜と言うことになっています。

手取釜は約1000年前の「天命の手取釜」が有名です。形は釜の形に三つ足が付き注ぎ口が一箇所あり弦がついているもので、一見今の鉄瓶と似た形をしていますが、実際に使用された時は、釣り釜として使われたものと思われます。と言いますのは、この手取釜と今の鉄瓶との一番の違いは、弦が細く片手でお湯を注ぐにはとても不自由なことです。

手取釜の名称は、その後利休の時代にも出てきますが、その形を見ますとすべて釣り釜と思われます。
それでは、「鉄瓶」の名称はいつ頃から使われているかと言いますと、記録に残っているものとして一番古いのは、約210年前の天明5年(1785)の名古屋の釜師の加藤忠三朗家のものがあります。
これは毎月の注文の控えで茶の湯の釜が中心ですが、その中に「鉄瓶の部」として、鶴首瓶や万代屋瓶などの釜の名称に「瓶」を付けたものがいくつか出てきます。これが現在のところ一番古い記録ですが、その後研究したことを少し述べてみたいと思います。 
まず鉄瓶が出てきた時代背景ですが、18世紀に入り徳川政権も安定し一般庶民の生活レベルもだんだん高くなってくる中で、大名や豪商などの権力者の行う茶道に対し、手軽にお茶を楽しむ煎茶の作法が中国より渡来しました。当時の文化人達はいち早く煎茶の作法を取り入れ新しい一つの文化を作り上げました。この時に手軽にお湯を沸かし、急須に注ぐための道具として、鉄瓶が誕生したものと思われます。

実際には煎茶道では、鉄瓶は金気が出るということであまり使われてはいないようですが、庶民の文化レベルの高まりの中で、日常生活の中で火鉢に鉄瓶を掛けいつでもお茶が飲めるということで、急速に鉄瓶が普及しています。

この事を証明するものとして、その時代の浮世絵があります。色々と調べて行きますと、浮世絵の吉原の情景の中によく火鉢や瓶掛けが出てきますが、18世紀前半の浮世絵には火鉢は描かれていますが、鉄瓶は出て来ません。私が調べたところでは、始めて鉄瓶が描かれているのは、鈴木春信の「風流江戸八景」で明和6年(1769)の作品です。

その後、北斎や歌麿の作品の中にはよく火鉢に鉄瓶が掛けてある様子が描かれています。19世紀の初めの文化年間になりますと、大きな瓶掛けに鉄瓶が乗っている絵が見られます。さらに江戸末期になりますと、長火鉢があらわれます。これは銅壷が仕組まれておりお湯を沸かすだけではなく、いつでも酒の燗が出来るようになっています。これはほんの少し前の生活と比べますと大変贅沢なものといえると思います。

③その後

この様にして、生活の中に入り込んだ鉄瓶は明治に入り益々精算されるようになり、一時茶道が廃れた頃は釜より鉄瓶の方が盛んに作られていたようです。今のような電気製品が無く、暖房は火鉢による時代は鉄瓶が大変重宝されたことは間違い有りません。高岡でも火鉢や瓶掛けが多く作られ、それと共に鉄瓶も盛んに作られています。
鉄瓶は全国的に鋳物の産地ではどこでも作られており、大正から昭和の初めの商工省工芸品展などにも鉄瓶の出品が多く見られます。

ところが昭和11年を境に戦争が始まりますと、金属製品は製造の制限から禁止となり、全国の鋳物産地は一斉に軍需品の生産に邁進しました。皆様もよくご存知の通り、戦後はアルミによる家庭用品が多く作られ、高岡が一大アルミ製品の産地となって行きました。この間鉄瓶はだんだん製造されなくなり、アルミの湯沸やポットの普及と共に、私たちの周りからその姿を消していったのです。

(④ 鉄と健康について)に続く。

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