⑥高岡の町の見所

今年が高岡の開町四〇〇年ということで、前回まで前田利長公に関係するお話を今までしてきましたが、実は高岡の歴史は大変古く旧石器・縄文・弥生時代などの全ての遺跡が市内にあります。また文献上では七世紀に越(こし)の国が越前・越中・越後に分かれ、八世紀初めには越中の中に射水(いみず)・砺波(となみ)・婦負(ねい)・新川(にいかわ)の各郡が設けられた記録があり、高岡はその内の射水郡に属しています。八世紀になり今の高岡市伏木に越中の国府が置かれ国司が赴任していますが、この頃に越中には東大寺の荘園が数多く拓かれたという記録があります。越中に赴任した国司の中で最も知られている人物は万葉の歌人として有名な大伴家持ですので、少し詳しくお話しをさせていただきます。
大伴家持は天平(てんぴょう)十八年(七四六)二十九才の時に越中守となり今の高岡市伏木(ふしき)に赴任し、天平勝宝(しょうほう)三年(七五一)まで越中に滞在しました。この間、越中から能登を巡って多くの優れた歌を読んでいます。そして万葉集に収録されている四五一六首の歌の内四七三首が家持の歌ということで、家持は万葉集の編者といわれていますが、実はその内の二二三首もの歌を越中在任中の五年間に詠んでいるのです。このことから、高岡を「万葉のふるさと」とも称し、家持の銅像や歌碑が市内に数多く点在しています。

JRで高岡へ来て駅前に立ちますと、すぐに目に付くのは家持と二人の乙女の銅像です。これは、万葉集・巻一九・四一四三の

「物部(もののふ)の 八十(やそ)少女らが汲みまがふ 寺井の上の堅香子(かたかご)の花」
の場面を銅像にしたもので、高岡を代表する彫刻家の米治一の作品です。もう一つの家持像は二上山(ふたがみさん)に建つ像で同じ米治一が若い時に制作した作品です。家持が二上山に因んで詠んだ歌で最も知られているものは、万葉集・巻十七・三九八七の

「玉くしげ 二上山(ふたかみやま)に鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり」
で、家持の心情を歌ったものといわれています。この他まだまだ多くの素晴らしい歌がありますが、もう一首越中の万葉を代表する歌は万葉集・巻十七・四〇二五の

「立山に 降り置ける雪を常夏(とこなつ)に 見れども飽かず 神(かむ)からならし」
という歌です。今日でも、冬から初夏にかけて好天の日に見られる立山連峰の姿は、まさにいつまで見ても厭きない神々しさを感じます。なお、国府跡といわれる勝興寺(しょうこうじ)の近くに万葉歴史館があり、万葉集に関するいろいろな展示が見られますので、興味のある方は是非一度お訪ね下さい。
また、家持が越中に赴任する前後の奈良の都の出来事としては、聖武天皇が東大寺盧舎那仏(るしゃなぶつ・奈良の大仏)建立の詔(みことのり)を出したのは天平十六年(七四三)でありました。大仏の建立が進んだ天平二十一年(七四九)四月には、陸奥の国より大仏に塗る為の金が産出したことを喜んだ聖武天皇は、年号を天平感宝(かんぽう)と改め、さらに同七月には天平勝宝(しょうほう)と改元しています。その後天平勝宝四年(七五二)に国を挙げての大事業であった金色に輝く大仏がようやく完成し、盛大な開眼法要が行われています。
高岡大仏に関する逸話は第二回目に掲載しましたが、奈良の大仏に関する逸話としてあまり知られていない部分を少しお話ししたいと思います。それは完成間近くなった頃、それまで屋根のない場所で鋳造及び仕上げをしていましたが、いよいよ大仏に金を塗るという段階で大仏殿を建てました。

その中で鍍金をした訳ですが、当時の鍍金は金を水銀に溶かしたものを塗ったあと、熱を加えて水銀を蒸発させるという方法でした。完成を急ぐ連日の作業の中で職人達の中で次々と病気になって倒れるものが続出しましたが、勅命ということでそのまま続行し遂に完成をしたといわれています。これは、気化した水銀を吸い込んだ職人達が水銀中毒にかかったもので、日本に於ける初めての産業公害とも言えるものでした。

時代が下って、文治三年(一一八七)春、源義経(みなもとのよしつね)主従が奥州平泉を目指して北陸道を通ったときに、伏木にある「如意(にょい)の渡し」を渡ったということが室町時代初期に成立したといわれる「義経記(ぎけいき)」に出てきます。内容は、渡守の平権守に義経であることを見破られるが、弁慶が扇で義経を打ちすえるという機転で無事に乗船できたという話です。この話を元にして能の「安宅」や歌舞伎の「勧進帳」が創作され、舞台が加賀の安宅の関として描かれているのですが、高岡ではその元になったのは如意の渡しだと伝えられています。

また、伏木の近くの雨晴(あまはらし)の地名は、義経一行がにわかに降ってきた雨をしのいだ事から名づけられたといわれ、今でも海岸に義経岩という岩穴があります。大伴家持も立山の美しさを歌に残していますが、ここ雨晴からの富山湾越しの立山連峰の眺めは、まさに絶景といえるもので、多くの人が一目この景色を見たいと訪れています。(実際には、よほど好天に恵まれないとその景色は見ることができません。)

御車山(みくるまやま)とは、後陽成(ごようぜい)天皇と正親町(おおぎまち)上皇が聚楽第(じゅらくだい)へ行幸された時に豊臣秀吉が作らせたといわれる、大型の御所車です。この御車山は秀吉より前田利家に贈られ、さらにそれを利長が引き継いだものです。利長は新しく作った高岡の町の人々に御車山を与えました。開町二年後の慶長一六年(一六一一)には初めての御車山祭りが行われている記録があります。その後高岡の町衆は、最初の御車山に似せて新たに六台の曳山を作り現在まで連綿とこの祭りを続けてきましたが、それを支えたのは、現在では「山町」と呼ばれる高岡の中心部の商人達の財力と誇りでした。御車山は昭和五十四年に国の重要有形文化財に、また御車山祭りは重要無形文化財に指定され、毎年五月一日に市内を巡行しています。
明治二十二年(一八八九)に我が国に初めて市制が施かれた時に、人口も少なく県庁所在地ではない高岡がその中に入ったのも、高岡の町の経済的な重要性のたまものといえます。

明治三十三年(一九〇〇)に高岡の町の三十三ヶ町・四千軒余りを焼失する大火がありましたが、その後の復興にあたり現在の山町を中心に力のある商人たちは競って火災に強い土蔵造りの大店を作りました。中でも明治三十五年(一九〇二)に建てられた菅野家は当時のお金で一〇万円をかけたといわれ、現在では国の重要文化財に指定され一般に公開されています。

平成十二年には山町筋が国の重要伝統的建造物保存地区に指定され、土蔵造りの家が次々と整備されています。

昭和五十六年から高岡銅器の鋳造技法を生かした「彫刻のあるまちづくり事業」が行われ高岡古城公園を中心に十五基のブロンズ彫刻が設置されました。

その後、平成五年からは街角や広場などに彫刻やストリートファニチャーなどのパブリックアートが導入されています。写真の岩野勇三(いわのゆうぞう)作のブロンズ作品「ぎんぎんぎらぎら」は童謡「夕日」の作曲家・室崎琴月(むろさききんげつ)が高岡出身ということで、手をつないで夕日を見ている子供達の姿と楕円形の夕日の中に曲の五線譜をあしらったユニークな作品像です。

毎年夏が近づくと、ブロンズの子供達に特製の浴衣を着せることで市民に親しまれています

もう一つの写真のブロンズ作品は、高岡パブリックアート市民会議が募集し、私と二人の友人が協同企画し、十五点の提案の中から選定されて制作したブロンズ群像「鎮守の森のアルチザン」です。

この作品のテーマは、「設置場所のパセオガーデンにある大きなけやきの木を自然のオブジェとしてとらえ、動物や鳥などの生き物が息づく鎮守の森と職人の町高岡をモチーフに、おとぎ話を展開します。欅の木は昔から、町を、人々を見守り続けてくれた大切なものであり、今ここに集う人々にやすらぎを与えます。そして、この鎮守の杜に住む精霊たちが職人の姿をし、いろいろな道具を用いて森羅万象を作り出しています」というものです。実際の制作に当たっては、いろいろな形で市民の参加を募りましたが、職人達が取り組んでいる「創造の雲」の中には子供達が自然観測をしてスケッチした絵がそのまま彫り込んで入れてあります。

ところで、毎年八月の第一日曜日の早朝に、高岡銅器協同組合の主催で銅器に関わる人達百二十人以上が参加して、市内に設置してある五十点以上のブロンズ作品の清掃奉仕を行っていますが、写真はその時のものです。

「金屋町石畳通り 鐵瓶屋」

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高岡銅器の展示・販売

「高岡銅器展示館」

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