第1回 銅器の歴史②

⑤大正から昭和初期まで

大正から昭和20年にかけては世界的な政治経済の変動の波の中で、明治末頃から始まった技術革新が益々進み、そのことと相まって問屋を中心とした分業制が一段と進んだ時代です。
その中で、特筆すべきは大正2年に富山県工業試験場が高岡に開設されたことです。設置の目的の第1条に「本場は銅器・漆器の改良・発達をもって目的とし・・」とある様に、はっきりと銅器生産の近代化を目指しています。また業界では生型鋳造の実用化に成功し、量産化が大いに進展したのもこの頃です。
また、昭和5年にはアルミ鋳物による鍋の生産が始まり、高岡アルミ産業の基を築いています。

大正から昭和にかけての高岡銅器の生産は、多少の波はあるもののおおむね順調に伸展し昭和11年のピークを迎えますが、翌12年の支那事変を境に大きく落ち込み、太平洋戦争に入ると銅・鉄の使用制限から使用禁止へと移行し、銅器業界は壊滅状態になってしまいました。

⑥昭和20年から50年

昭和20年に太平洋戦争が終結すると高岡銅器業界では、まず、鍋釜景気が起こりました。

戦時中全ての金物類を供出し家庭金物が逼迫していた時代、豊富にあったアルミのスクラップを使用し鋳物の鍋釜を作ったところ爆発的な売れ行きを示したわけです。
ところが、これは永くは続かず昭和25年頃には下火になっています。

その後、銅器の生産が少しずつ回復したのですが、昭和27年の朝鮮動乱による銅地金の高騰のため、銅の代用品として亜鉛合金・鉄等により工芸品が作られるようになりました。
その後、昭和30年代には輸出銅器が盛んになる一方工芸鉄器の生産も増え、銅器業界の生産額はようやく戦前の水準まで回復しています。
昭和40年代に入ると高度成長の波の中で、特にギフト需要の増加と共に銅器・鉄器之販売も大きく伸び、それに対応すべく新しい技術を導入しての生産の増大が押し進められました。

銅器に於いてはシェルモールド法・ガス型法・ロストワックス法等であり、鉄器ではモールディングマシーンの導入であり、亜鉛合金ではダイカスト・転鋳等の金型鋳造などです。

又、工場の拡張に伴う郊外への移転及び団地かが進んだのもこの頃です。

⑦昭和50年代から現在

昭和40年代の高度成長も昭和48年の石油ショックを機に沈静化し、その中で従来の大量生産、使い捨てに対する見直しが叫ばれるようになります。

これが昭和49年に制定された「伝産法」(伝統的工芸品産業の振興に関する法律)の成立の基にある考え方で、『本物の材料を使用し伝統的技法により作られたものは生活に安らぎと潤いをもたらすと共に、永く使い込まれた工芸品は一層味わいを増す』というものです。

高岡銅器は昭和50年に第一次の産地指定を受け、以来需要開拓事業・後継者養成事業・PR事業など各種の方策を次々と実施し多くの成果を上げてきました。 
今後、高岡銅器として取り組まねば成らないことは、伝統的工芸品をベースにしながら年々変わりつつある現代生活の中で、素材の特徴を生かしながら身近に使用できるものを作ることかと思います。
一方、高岡銅器は社会環境の変化に伴い工芸品以外にも進出しています。一つはブロンズ彫刻作品であり、もう一つは建築関連金物です。

伝統的な技法を基に新しい技術を導入して作られる大型ブロンズ像は年々増加する傾向にあり、ブロンズ以外の素材ではアルミ・ステンレスなど含めた製品もストリートファニチャー・街頭・橋の高欄や親柱など公共空間に滲出しています。

また、建築に関連する金物も実用優先の工業生産品から素材の持ち味を生かした味わいのあるものが要求されるようになるものと思われます。
今後も、高岡銅器は高度な鋳造技術と多様な加工技術を併せ持つ世界でも有数の鋳造製品の産地として、常に時代のニーズにあった製品を作り続けていきます。

 

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