第1回 銅器の歴史①

①高岡銅器の源流

全国の鋳物師(いもじ)は殆どが、その昔河内国丹南郡狭山郷に定住し鋳造に従事していた人たちの流れを組むと言われています。

河内の鋳物師は、真継家の支配のもと禁裏御用を務め鋳物業の独占権を持っていましたが、平安末期戦乱の世となり全国各地に移り住み、それぞれの地で鋳物業を続けました。
高岡の鋳物師の祖も、河内から出て越前の若狭へ更に加賀の倶利伽羅、そして越中砺波郡西部金屋へと移り住んだ人たちといわれています。

②高岡鋳物産業の始まり

高岡銅器は、加賀藩の二代藩主であった前田利長公がに慶長14年(1609)に高岡城を築いた折に、砺波郡西部金屋より七人の鋳物師を招き金屋町に5000坪の土地を与え、工場を開かせたことに始まると言われています。

築城後わずか5年目に利長公が亡くなり、翌年大阪夏の陣のあと「一国一城の制」が布かれた事により高岡城は廃城となりましたが、三代藩主利常公が町人の転出禁止令を出すほか商工業に対しては、各種の保護政策を施し町の存続に務めた結果、高岡は加賀藩における商工業の中心都市としての歩みを始めました。

高岡の町の発展と共に金屋町の鋳物業も栄え、それまで日本有数の鋳物の産地であった能登の中居に代わり全国一の鋳物師集団による産地となっています。

③高岡銅器の発達

高岡ではそれまで鍋・釜・鋤・鍬などを作っていた鋳物師とは別に、江戸中期には仏具師による唐金鋳物が発達してきます。

記録によると宝暦年間(1751~)より仏具師による唐金鋳物の仏具・花瓶・香炉などの製造が始まり、その後文化文政(1803~)の頃になると庶民の生活の向上とともに徐々に盛んになってきました。

この頃、鋳物師と仏具師の間で鋳物座法に関する職分をめぐって争いが起こっています。

これは真継家の保護を楯に鋳物業の独占を主張する鋳物師が従来主に銑鉄鋳物を生産していたのに対し、仏具師が唐金鋳物による比較的小さい仏具を作っていたところ、需要の増加に伴い問屋資本とも結びつき段々と大型の製品を作るようになってゆき、鋳物師の領分を侵し始めたからです。

結果的には鋳物師の訴えにもかかわらず仏具師の実績が認められ、文政2年(1819)に正式に銅器問屋が認められ、その代わりに100文に1文の税金が課せられるようになっています。

その後、有力な銅器問屋の活躍により販路が全国に広げられてゆきますが、その後幕末の嘉永末年(1854)には早くも横浜にて外国人と取引をするほどでした。

④明治期の高岡銅器

明治に入り高岡銅器は大きく変わった社会制度の中で新たな局面を迎えることになります。

廃刀令により職を失った金沢や富山の藩お抱えの細工師を高岡へ呼び寄せ唐金鋳物に高度な技術の彫金を施し、それまでに無かった優れた製品を数多く作り出しています。

これらの製品は、明治6年のウイーン万博を始め各地の博覧会に出品され大好評を博しています。

しかし、この加飾重視の製品の輸出は長続きせず、明治15年からの経済不況も重なり生産量は激減しています。
その後高岡銅器の技術革新の必要が叫ばれ、色々な対策がなされていますが、特に明治27年に富山県工芸学校が創設され、人材養成・技術改革に大いに成果を上げています。明治29年には富山県工業会が創設されデザインの指導が強化されています。

また、民間では明治34年に高岡銅器産業に従事する青年たちが高岡金工会を組織し工芸技術の研究を行っています。
技術革新の具体例としては、明治27年に鋳物工場に初めて動力が使われだし、翌28年には黒鉛製の坩堝が使われるようになり溶解作業が容易になると鋳物業者が次第に増えてゆきます。

明治36年には新式溶解炉・送風機などが新設され、明治40年には真鍮研磨機が導入されるなど工場設備の近代化が始まりました。
この様な動きの中で、明治41年に農商務省から「銅器製造法の改良実験」の委嘱がなされ翌42年に報告書が提出されていますが、この中で次の様な実験が行われています。
① 鋳型の研究 ②溶解の改良 ③合金法 ④鋳造物仕上方法の改良
⑤銅器着色法 ⑥蝋付法改良などですが、銅器製造加工の各部門にわたり新しい研究がなされ、生産技術が一段と進歩しています。またこの頃より加工工程の分業化が進み、問屋制家内工業体制が確立されてきます。
(⑤大正から昭和初期まで )に続く。

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